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東京都北区周辺を拠点に活動する
室内楽グループです。

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プレビュー



第11回演奏会は、「ロマンティシズムの系譜」というテーマで開催いたします。
ロマン主義の起源、そして時代を・国境を越えての拡がり、さらには歴史のなかでの足跡を、皆さまとともに追いかけていきたいと思います。
皆さま、どうぞご来場くださいませ。

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第10回演奏会は、「東と西の共鳴(ソノリテ)」というテーマで開催されました。
東と西、音楽を通して人間はひとつ。人間としての作曲家に注目しつつ、演奏会を楽しんで頂きたく思います。
どうぞご期待頂けたら幸いです。


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第9回演奏会は、「拡がるロマン・6つの魂」というテーマで開催されました。
ベートーヴェンによって発芽したロマン主義は、ヨーロッパ大陸を席巻、世界へと拡がっていきました。
この多様な拡がりの世界に、皆さまを誘いたいと思います。どうぞご期待くださいませ。

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第8回演奏会は、「ベートーヴェン250年」というテーマで開催されました。


 ベートーヴェンは10代の終わりに、おそらくは世界史上最も重要な出来事であろうフランス革命を迎え、貴族世界から市民世界への激動の時期を生きました。彼の音楽にも、はっきりとこの2つの世界があらわれています。また、以降の世界におけるさまざまな局面において、ベートーヴェンは甚大な存在感と影響力を持ち続けました。
 ベートーヴェン生誕250周年を迎えたいま、このような多様性に満ちたベートーヴェンの世界に、皆さまを誘いたいと思います。どうぞご期待ください。

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第7回演奏会は、「ネイションの多彩」というテーマで開催されました。

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第6回演奏会は、「ドイツとスラヴ」というテーマで開催されました。

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第5回演奏会は、「春の日のロマン」というテーマで開催されました。
     18世紀にヨーロッパで大流行したルソーやヴォルテールなどの啓蒙思想は、世界史上最大の出来事かもしれぬフランス革命をもたらしました。しかしこれはけっきょく独裁・恐怖政治を生み、混迷をきわめます。そこにナポレオンが登場しますが、ヨーロッパじゅうを支配した彼は諸民族の愛国心を覚醒させ、猛反撃を受け没落します。
 この流れへの失望のなか、フランス革命の源泉であった啓蒙思想に反発する潮流が隆起したのは、あるいは必然であったかもしれません。これがロマン主義です。人類に共通する普遍的な理性を追求した啓蒙主義に対し、個々の民族性や、個人の感情を重視したものでした。
  ロマン主義の動きはナポレオン支配下に本格的になります。とりわけ、フランス支配によって初めて民族としての自覚を持つようになったドイツにて顕著でした。音楽の世界ではベートーヴェンがその象徴的な存在です。ナポレオンへの崇拝と反発のなか、彼は作曲家としての頂点に至りました。
 ナポレオンが没落するとヨーロッパ諸国はメッテルニヒを中心に保守反動で結束するようになり、政治活動は厳しく取り締まられるようになりました。そのぶん人々の内面は躍動し、とりわけドイツでは文化が最大に成熟します。ロマンの春の時代、音楽の世界ではシューベルトやシューマンがその中心といえるでしょう。
 
    この流れは1848年のフランス二月革命を機に破壊されます。これは諸国に飛び火し「諸民族の春」となりました。ナショナリズムの時代の到来です。ドイツは国家を初めて創設しようと盛り上がるようになりました。
 これ以降、文学や美術の世界ではロマン主義は退潮しますが、逆にますます盛り上がったのが音楽の世界でした。ブラームスはワーグナーとともに、ドイツ民族の春を象徴する存在となりましたし、しだいにドイツと対立することになるフランスではグノーやビゼーらが活躍しました。
 ロマン主義音楽の灯火はロシアにも波及し、世紀が明け第一次世界大戦でヨーロッパが自滅するに至るまで続くことになりました。

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第4回演奏会は、「爛熟のヨーロッパ」というテーマで開催しました。
    ヨーロッパの大陸世界、近代の原点はフランス革命前、アンシャン・レジームの時代にあるといわれます。ときは18世紀、栄華を極めたフランスの絶対王政には陰りがみえ、代わりに封建世界を打ち砕き、自由と平等を目指す啓蒙思想が世に登場しました。それはおとなりドイツにも影響を与えます。宗教改革・三十年戦争と混乱をきわめたこの地域に、バッハ・カント・ゲーテなどの巨人が次々現れ、ドイツはまずは文化面から存在感を示すようになりました。
 まもなく起こったフランス革命は絶対王政を過激な形で打倒、こんにちに続くあらゆる思想や原則がここに確立しました。
  革命後の混乱したフランスに登場したナポレオンは、自由と平等の革命精神を全ヨーロッパに伝えました。しかしながら彼の退場後ヨーロッパはすっかり政治的に保守反動の時代へ。芸術家たちは内面に閉じこもり、そこにロマン主義芸術が花開きました。
 しかしまもなく起こった1848年革命以降ヨーロッパは一転、そのパワーをナショナリズムに惜しみなく投入するようになります。初めて国家建設なったドイツはフランスと激しく対立。そして対独復讐に燃えるフランスでは文化が爛熟、世紀末芸術が花開きました。いっぽうロシアに支配されるようになったポーランドには、独立へのナショナリズムが燃えさかります。
 
    世紀も終わりに近づく頃、フランスとロシアは反独を掲げて接近、フランス世紀末文化はロシアに流入するようになりました。爛熟のヨーロッパ文化は、ロシアで最後の大輪の花を咲かせます。まもなくフランス・ロシア同盟はドイツと開戦、これは第一次世界大戦となって、以降ヨーロッパは世界の中心の座を喪失することになります。
 大戦前、すなわち世紀末文化が爛熟した時代は、その後「ベル・エポック(最高の時代)」と呼ばれ、ヨーロッパがもっとも輝いていた頃とみなされるようになりました。


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第3回演奏会は、「春の風はドイツから」というテーマで開催しました。

    ときは9世紀なかば、カール大帝の死後、フランク王国は息子たちに分割相続されました。そのうちゲルマン人が多く住む辺境の地に出来た東フランク王国がドイツの原形です。東フランク王は10世紀以来神聖ローマ皇帝となりましたが、皇帝はその名にふさわしくヨーロッパの中心・イタリアを統治したいと望み、ドイツ統治を疎かにしたため、ドイツは分裂が進行しました。1618年から始まる三十年戦争では全土が焼け野原になり、被害は20世紀の2度の世界大戦に匹敵するほど。分裂が決定的になったドイツは、工業化・資本主義化する隣国オランダやフランスに大きな後れをとることになりました。
  しかしながら東北に新興ベルリンを中心とするプロイセン、南東に帝都ウィーンを擁するオーストリアと、ドイツの2強というべき存在が18世紀に台頭しました。19世紀はじめにはドイツ全体がナポレオンに占領もしくは傘下になるという屈辱を味わいましたが、その状況で初めて、ドイツにドイツ人としての意識が発生、人々はドイツという国を創りたいと考えるようになりました。プロイセンとオーストリアは統一に向けての主導権をめぐり戦い、プロイセンが圧勝しました。オーストリアは数百年にわたり神聖ローマ皇帝位を独占してきたドイツの中心でありながら、建国されようとしている統一ドイツから除外されるという屈辱を味わうことになりました。
 いっぽうプロイセンは宰相ビスマルクのもと、ドイツ統一を妨げるフランスに戦勝、1871年、日本でいうと明治維新の頃に初めて、ドイツと名のつく国が建国されました。しかしながらまもなく、急に強くなったドイツに対する諸国の警戒心は高まり、国際社会での孤立化が進みます。第一次世界大戦では完敗、領土を大幅に縮小することになっただけでなく、過酷すぎる賠償金を支払うことを余儀なくされました。
 
    経済的にアメリカに依存するようになっていたドイツは、1929年世界恐慌ではもっとも大きな打撃を受けました。失望したドイツ人は救いを独裁者に求めるようになりました。ヒトラーの登場です。熱狂的な支持を受けた彼は、オーストリア併合・チェコスロヴァキア解体に続き、ポーランドに侵攻、第二次世界大戦が始まります。しかしながらロシア遠征の躓きがきっかけで連合国は大反撃、1945年にはヒトラーは自殺、ドイツは敗戦国に。米英仏ソの分割統治となり、国土はまたも縮小されました。
 その後ソ連傘下の東ドイツと米英傘下の西ドイツに分裂、東ドイツは人材流出を止めるために1961年ベルリンの壁を建設しました。しかしその後ゴルバチョフの登場とともに民主化を求めるデモが高まり、1989年の壁の崩壊につながります。翌年、東ドイツが西ドイツに吸収合併されるという形でドイツは統一、新生ドイツは1993年に発足したEUの中心として、かつて侵略した周辺諸国の強い信頼を受け、今日に至ります。





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第2回演奏会は、「ベートーヴェンとその時代」というテーマで開催しました。

    ベートーヴェンは1770年生まれ。この頃、第2次英仏百年戦争がイギリス優位に決着、窮乏に苦しんだフランス市民が革命というかたちでエネルギーを爆発させるのも間近・・・ヨーロッパはそういう時期でした。
 その爆発が起こったのはベートーヴェン19歳のとき。震源地フランスに近いボンで育ったルートヴィヒ少年は、新しい時代の息吹を自然と感じ、芸術家としての新しい生き方に思いを馳せながら育ちました。
 当時まだドイツという国はなく、神聖ローマ帝国という得体のしれぬ存在のなかに、プロイセンとオーストリアが台頭していました。経済や軍事ではイギリス・フランスの後塵を拝したこの地域でしたが、芸術は一級品でした。音楽はプロイセンのフリードリヒ大王のもと活躍したバッハのあと、オーストリアにモーツァルトが登場。哲学にカント、文学にゲーテ・シラーがあらわれ、文化の黄金期を迎えようとしていました。
  ベートーヴェンは22歳のときから、あこがれのウィーンで暮らすようになりました。ときにフランス革命が激化、次いで混迷のなかにナポレオンが登場。ヨーロッパ全体が揺れに揺れました。
 彼の住むオーストリアはナポレオンの敵国でしたが、新しい時代にふさわしい生き方を模索していたベートーヴェンは、ナポレオンを市民とともに新秩序を切り拓く英雄とみなし、崇拝しました。
 しかしながらまもなく、ナポレオンが皇帝に即位したというニュースが飛び込みます。すると彼はナポレオンを俗物と呼び、崇拝を止めます。封建的な旧世界をどこまでも嫌悪し、新しい世界を追い求めるベートーヴェンでした。
 同時代の巨人・ゲーテは、そんなベートーヴェンの偉大さを認めつつ、秩序を無視する野蛮な人物とみなし、よき理解者となることは出来ませんでした。
 
    名声を高めるベートーヴェンでしたが、私生活は苦難の連続でした。耳が聞こえにくくなることが音楽家にどれだけの苦悩をもたらすものか、察するにあまりあります。生涯独身であった彼にとって、恋愛もまた、魂を揺さぶり続ける要素でした。さらには、甥を引き取ったものの、愛情が見事なほどにからまわり、おたがいが傷つくことになります。
 しかしながらそのような苦悩を経るたびに、彼の音楽は深遠なものになってきます。教会の宗教音楽、もしくは宮廷のバックミュージックに過ぎなかった西洋音楽に、人間の魂や感情を込めるという、いまやあたりまえのことを初めておこなったのがベートーヴェンであるといわれます。
 そして彼は後世にはかりしれぬ影響を与えました。19世紀ドイツには輝かしい後継者が出現、そして日本においては楽聖と呼ばれ、もっとも偉大な音楽家として尊敬を受け続けてきました。





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第1回演奏会は「シューベルトと仲間たち」というテーマでした。以下はその予告編です。

     シューベルトは1797年、ウィーンの北にあるリヒテンタールという水と緑に恵まれた町で生まれ、ここで育ちました。リヒテンタールはその後ウィーンに編入されて今日にいたります。
 現在の北区にあたる風光明媚な地域も、少し遅れて東京に編入されました。シューベルトの才能は、まさにウィーンの北区で育まれたといえます。 
   彼が生まれたウィーンは、革命中のフランスとの戦争のまっただ中でした。彼の少年期は、それに続くナポレオン興亡の時期とぴったり重なります。
 まさに激動の世界を生きたシューベルトは、新しい時代にふさわしい芸術家としての生き方を模索し続けましたが、なかなか認められず苦難の連続でした。 
 
     しかし彼の周りには常に、仲間たちがいました。そして彼らに支えられながら珠玉の逸品の数々を残しました。さらには、この街で活躍した偉大な先輩たちの薫陶を強く受け、そして後輩たちへの影響も、はかりしれないものがあります。






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